「制作」

私達の世界(空間)は可能性と呼べる波(エネルギー)によって満たされています。何も無い世界、つまり真空(空、無)はすべてを創造し得る波の集積であり、それが色々な事物に形を変えて表出してきます。ある時は音、ある時は光、色そして物(物質)等々として。物質 (粒子)は閉じ込められた波の一つの形と考えることができます。この世界はそれらの物、事柄が互いに平等に関係し、作用し合うことで成り立っています。音は形を変えた光であり物質でもあります。光は形を変えた物質、音です。物質も同様です。私はそれらの関係、作用の在り方を様々な視点から読み取る、また仮定することにより制作を行っています。

私の作品はいつの場合でも絵画もしくは彫刻という考え方のみでなく言語であり音(音楽)、物理学、宗教学等々もしくはそれらと同等のものでもあります。作品に接する人、その環境、状態などによりその在り方は変容します。物、事柄の総ては常に固定化した一定の存在ではありません。互いの関係の中で自由に変容し、その正しい在り方を示そうとするバランス存在です。

この考え方が私の基本になっています。

(1987年ウィーン初個展時のテキスト)

─ ma(間)─

この言葉を私達日本人はごく一般的、日常的に用いています。同時に重要な意味を持つ特別なものとしても意識しています。日常の中で私達は物事の状態、内容について、またその善し悪しについて度々この言葉を用いて表現しています。その意味、内容は常に一定のものではなく状況、状態により様々に異なっています。最も単純な意味としては物と物や時と時などの隔たりがあります。そしてその要素、状態、構造を指し示し、更にそれらの関係およびそれらを総括した意味をも持ってきます。

この言葉は単一の意味として用いられることもありますが多くの場合複数の意味、内容をその中に含んでいます。そして物、事を表す言葉として用いられるのですが、それは物、事を直接指し示すものではなくそれを取り巻く環境や周辺の状況、状態、要素更にそれらの関係を表します。

私達は事物を的確に表現し得る有効なものの一つとしてこの言葉を用いています。それは事物の独自性つまり個性、特性が個そのものだけでなくそれと同等もしくはそれ以上に外的な状況、その内容との関係によって決定されていると考えられていることを意味しています。つまりあらゆる事象は固定した独自性(個性)を持つものではなく置かれた状況、互いの関係の中で色々な可能性を持ちうる一般的存在といえます。私達が知覚、認識している事象の姿は一般的存在のある一時の姿です。それを決定している要素、関係の総称が "ma" です。

「ココはドコ、ワタシはダレ」

これは幼い頃から心の中によく出てくるフトした思いです。
私はこれを知りたいがために制作という行為を行っているのかも知れません。
宇宙について考える、生命について考える、電気とは、電子とは等々様々なことに触れ将来について考えていました。その中で特にはっきりとした目的の無い興味本位の大学受験の手だてとして触れたデッサンという行為に今まで経験したことの無いワクワク感とリアリティを持ちました。それを起点にデザイン、版画、油絵、素材研究、空間造形、立体と変遷そしてそれらを複合した作る(創る)という行為に出会いました。この行為とそれに関わる思考に何かしらの実感を覚え、それは時を経るごとに強く、定かになって来ています。この空間の存在意味、そこに存在する自身の意味、私の知りたかった(感じたかった)ことがこの行為により私の中に蓄積されていると考えていいのかも知れません。確かに作品について考えている時、作っている時、自身の存在を少なからず実感できている事は確かです。
何かを作ること(制作)は私にとって目的ではなく、私を構築する、理解する手段であるといえます。真摯に向き合うという条件のもと、とても有効で自然な手段になりえています。
この感覚が続く限り私は制作を続けて行くことでしょうしまた必要性がなくなれば制作することもなくなるでしょう。
私が制作という行為に縛られる訳でもなく、制作という行為が私を縛ることもなく。

梶浦徳雄サイン