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岡山出身でウイーン在住の造形作家・梶浦徳雄氏による電子メール通信。ゲージュツ家の日々って…。
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梶浦徳雄氏プロフィル
1951年岡山県都窪郡妹尾町(現岡山市妹尾)に生まれる。妹尾小、岡大附中、朝日高、東京芸大、同大学院に学ぶ。1981〜82年にはウイーン国立美術大学(オーストリア)に留学。一時帰国の後、1986年、再びオーストリアに渡りウイーン市に滞在、美術作家として制作を続け現在に至る。オーストリア国内各地、ドイツ、スイス、イタリア、リヒテンシュタインなどヨーロッパ各地やカナダ、日本でも多数の個展、グループ展及びアートフェアの実施、参加により作品の発表を行っている。
 

 
  皆さん、モノを作るって楽しいですヨー。ワタシ、日本にいました頃は予備校の講師なんぞを、エッ、学科の?イエ、とんでもない。美術の実技、ジ・ツ・ギですヨ。を、やってたンですけど。デッサンだとか構成などというモンとか、油絵トカ宣(のたま)うモンもですネ。デモ、マ、指導するナンて実際私ニャ似合わないンですけどネ。マ、忙しかったですネー。指導もですけどほぼ毎日が打ち合わせ。生徒が「アアダコウダ」トカ、次の方針は「ソンデコンデネ」トカでしょっちゅう午前様。制作の方は合間を縫って細々にッテ感じでしたネ。

 コッチに来ましてからはネ。お陰様でかなり制作に時間を費やす事が出来てますヨ。コリャ、ヤッパ嬉シイ。ココ、のんびりユックリした国、街ですのでネ、ノンビリゆっくり作品について考えられる。日本じゃ考える前に作品を弄ってたッテ感じでしたけど、シックリ来ない事が多かったですネー。こっちに来てからの方が少しはマシな内容があるンじゃないかナ、ナンて思ってンですけどネ。

 1982年から一旦帰国してたンですけど、1986年にはまたこっちに来ましてネ。先ずは作品担いで画廊廻り。こっちの画廊ッテのは1回の展覧会が4週間ぐらいあるンですヨ。デ、1つの画廊で年に10回ぐらいですか、展覧会は。ですからそン中に入れて貰うのは結構大変。デ、日本によくある貸画廊ナンてのはまずナイ。作家は作品を作り、画廊はそれを紹介し、売る。デ、生計が成り立つヨカッタヨカッタ、ですからお互い気に入って先の見通しが立ちそうじゃなきゃダメ。厳しいですヨ。ホント疲れましたネ、コノ画廊廻りッテヤツは。ナンセ言葉の問題、イヌが「ツー」、以前のどっかを参照してください、ぐらいのドイツ語ですから余計ですヨ。1軒回ると「ハーハーゼーゼー」2軒回ると霞がかかり3軒目には半失神。でも、ラッキーでしたネ。半年後に個展が出来る事になったンですから。

 当時、作家の生計は画廊が面倒をみる、ナンて事を聞いてましたのでネ。ですからOKがでたときニャモウ、生活楽勝ムードでしたネ。デ、展覧会。新聞の文化欄にも結構大きく取り上げられまして、いろんな人からのホントかなッ?テぐらいの誉め言葉。もうウキウキですよネ。ナンせ真性単細胞・・ですから。デ、売り上げ・・・ナント「0」・・ハハハ・・ですネ。これからの作家人生を見事に予言してましたネ。マ、お陰様というか、興味を持ってくれる人は結構いましてネ。展覧会の機会にはソコソコ恵まれてましたヨ。紹介やらナンやカやで毎年何度か個展をやらせて貰い、グループ展にもイロイロと誘って戴きましたヨ。結構新聞とか雑誌、テレビも取り上げてくれましてネ、嬉しかったですヨ。

 ただ、作品はナカナカ売れませんで、3回目か4回目の個展ですか、初めて売れたのは。嬉しくてネ、身体が震える感じを今でも覚えてますヨ。とにかくドンドン外に出なきゃッてンでドンドン展覧会をやりまして、多いときは年に10回以上。コリャ結構大変でしたネ。少しずつ作品が売れていたンで、そらイケーッて感じだったンでしょうネ。

 デ、突っ走るうちに・・・フト・・・自分とのズレとか感じるようになったンですよネ。要するに自分の作ったモノがどうも気持ち悪いンですヨ。展覧会をしてもしっくりこない。コリャいけませんよネ。ナンたって不健康ですもんネ。デ、展覧会の方は少し控えようかナと。チョイト見つめ直しですネ。マ、お陰様で作品の方は以前よりもしっくりくるようになってきましたがネ。ただ、作品が気に入るのと売れるのが反比例の状態になっちゃいましてネ、コリャ困ったト。ドウシマ・・ショウ・・ト

 デ、この夏私の故郷岡山で個展ナンですヨ。マタ詳しくご案内させて戴くと思いますのでお暇がなくても気が向かなくても是非是非・・・・