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岡山出身でウイーン在住の造形作家・梶浦徳雄氏による電子メール通信。ゲージュツ家の日々って…。
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梶浦徳雄氏プロフィル
1951年岡山県都窪郡妹尾町(現岡山市妹尾)に生まれる。妹尾小、岡大附中、朝日高、東京芸大、同大学院に学ぶ。1981〜82年にはウイーン国立美術大学(オーストリア)に留学。一時帰国の後、1986年、再びオーストリアに渡りウイーン市に滞在、美術作家として制作を続け現在に至る。オーストリア国内各地、ドイツ、スイス、イタリア、リヒテンシュタインなどヨーロッパ各地やカナダ、日本でも多数の個展、グループ展及びアートフェアの実施、参加により作品の発表を行っている。
 

 

 あんまり自覚ッてのはないンですけど、最初にこっちに来てからもう22年半。一旦牛丼を食いに帰りまして、ギョウザも食いましたけど、デ、またコッチに出戻りしまして、モウ16年半になるンですネー。コッチ中心の生活になりましたのは30代の半ばでしたネー。 

 デ、いつの間にか50代ですか。・・ハハハハh・・・ですネ。その間ウイーンの街も変わりましたヨ。基本的な部分じゃ大きな変化はないンですけど、特に中心街じゃあ。でも、ヤッパ色々様変わりが。お店が出来たり、閉じたりてのは、マ、何処でも勿論あるンですけど、高級品店街だったのがすっかり大衆店街になりましてネー。雰囲気がまるで違う。看板、ネオンなんかも比較的大人しい、良く言えば品とか格式のようなモノがあったンですけど、チョイト派手に、軽めになりましたよネー。ディスプレーなんかもそう。また機会があったら、気が向いたらでしょうか、その違いナンかをご紹介したいナなんて思ってはいるンですけど。郊外、市のハジッコの方ですネ、の方は特にメッチャ変化してますヨ。昔は広々とした麦畑がありまして、空き地もふんだんに。今や共同住宅に一戸建て、大型マーケットに事務所ビル。ドンドン空き地がなくなってる。麦畑ナンか何処にあるンだろうって感じ。

 知り合った人達も勿論イロイロと変わりましてネ。それぞれ生活の変化があるンですヨ。当たり前ですけど。あちこち遠くに行ってしまった知人も一杯。日本に帰ってしまったヤツらも当然いますよネ。

  デ、未だ親しく連絡を取り合ってるヤツ、どうしてンのか全く???のヤツ。マ、時の流れですネ。先日、新年が明けてからですけど、床屋に電話をしたンですヨ。以前このHPで書いたことのあります友人のトコですけど。3ヶ月ほど行ってませんで、髪が伸びましてネ。普段坊主頭ですからチョット伸びると寝癖はつくし、天然パーマですンで、洗うとナカナカ乾かないし、鬱陶しいンですヨ。ト、いつもとは違う声の響き。イエ、彼の声ナンですけど雰囲気が。ナント、去年一杯で閉店したとの事。驚きましたヨ。何も聞いてませんでしたからネ。モウ年金生活をするンで、とのこと。ナンと去年の9月に60才になってたらしいンですヨ。早期の年金、普通は65才からナンですけど、を貰うンだとか。40何年も真面目に仕事をやったし、もうイイだろうト。まだ暫くは髪を切って貰えると思ってたンですけどネー。2ヶ月に一回ぐらいですけどカミサンと2人一緒に、時には別々に行きましてネ、数年後には3人で髪を切って貰いに行きましたヨ。

 しかしもう60才ですか。知り合った当時、1986年ナンですけど、はまだ40代前半だったンですネー。当時からかなりオッサンだと思ってたンですけど、今の私より全然若かったンですネー。今の私がどんだけオッさんかト言うことを改めて考えさせられたト言うことですけど。自覚してますけど。改めてつくづく時間の流れを感じてしまいましたヨ。これからのことを私もチョットは考えなきゃいけないかナ、ナンて一応思ったりして。

 ココでズッと働いてた女性がいるンですけど、彼女は他のお店に移ったとか。お二人さんホントに長い間ありがとうございました。マ、このおやじ、店を閉めることについて贔屓のお客、今の大統領さんもソウですけど、から散々ブースカ言われたらしいンですヨ。オレ達ャこれからどうすりャいいンだとか。

 デ、もう数年は近くのお店で取り敢えず週3日だけ、それ以上やるとお国がうるさいらしい、仕事をするンだとか。お陰で我が家3人、無事スッキリ頭になれました。ヨカッタヨカッタ。でも後何年・・・???ですかネ。